たまたま定期列車として最後の旧型客車

鉄道に関しては、小学生の頃のブルートレインブームから好きになりました。
スーパーカーブームと二分していましたが、自分は鉄道を選び、時刻表を眺めたりしながら東海道本線から山陽本線に至るまでの駅名を暗唱出来るくらいのレベルでした。とはいえ出かける機会が当時はほとんどなかったので、社会人になってから一気に解放されたのかな?と思います。

この昭和60年3月は、大きなダイヤ改正が行われ、特定地方交通線が廃止され始めたりという動きも始まりました。

当時は知らなかったのですが、旧型客車がこのタイミングで一気に廃止になりました。

そして僕は、途方に暮れる

当時の日清カップヌードルのCMで印象的だった曲

この旅を思い出す時に必ず浮かんでくるのがこの曲です。
Walkmanは持っていないし、旅先で聴いた記憶はないのですが不思議とシンクロするんですね。
使った切符が青春18きっぷということで、チープな旅行が主体だったのも関係しているかもしれません。

当時のダイヤ(東海道本線)

この頃は、113系の緑とオレンジ色の電車が主力で、そこに211系のロングシート車が入りだした頃でした。あとは117系の快速電車が走りだした頃ですが、米原から西での運用は彦根止まりと接続が悪いので利用するのはほとんどが113系電車でした。
今では新快速が豊橋~大垣を颯爽と走りますが、当時は米原発浜松行きの各駅停車に乗ったりしたものです。

当時のダイヤ(山陰本線)

当時の山陰本線は全線非電化でしたので、京都駅の端っこにある山陰本線乗り場からひっそりとディーゼルカーに乗っていきました。えんじ色っぽい車両が青白い煙を出して走る姿だけでもディーゼルカーに乗ること自体がほぼ初めてでしたのでカルチャーショックでした。

保津峡駅で折り返し

wikipedia トロッコ保津峡駅の写真より

この時は日帰りで、保津峡駅まで行って帰るというルートを選びました。
何で保津峡駅を選んだのかは定かではありませんが、修学旅行で行ったきりになっていた京都という地がそうさせて、乗継する中で唯一の非電化区間というのが決め手だったのでしょうか。
なお、保津峡駅は別の場所に移動し、当時の駅はトロッコ列車の駅として使われています。

折り返しが旧型客車でした。

保津峡駅は京都市内ではありながらも保津川に挟まれた小さな駅だったのですが、折り返しでやってきたのはディーゼル機関車にひかれた客車列車です。
感覚としては、列車が停まるとドアが自動で開くものと思っていたのですが開きません。
あれ?と思ってドアノブに手をかけて引っ張ると開きました。つまり手動ドアだったんですね。
車内は白熱灯で薄暗く、編成が長いせいかお客様はあまりいません。
古い時刻表で調べると、米子を4:50頃に出て京都に15:15頃に着くという客車列車(820列車)のようです。
これこそ極みのカルチャーショックでした。
実はこの直後にダイヤ改正で見られなくなってしまったので、定期列車としての最初で最後の旧型客車体験でした。(以後は50系客車になります)